甲斐荘楠音(1894-1978) は、大正期から昭和期にかけて日本画家として活動し、革新的な日本画表現を世に問うた 「国画創作協会」 の一員として意欲的な作品を次々と発表しました。 しかし、戦前の画壇で高い評価を受けるも 1940 年頃に画業を中断し映画業界に転身。
長らくその仕事の全貌が顧みられることはありませんでした。 |
会期: 2023 7/1 〔土〕→ 8/27 〔日〕 展覧会は終了しました。 |
'2023 6_30 「甲斐荘楠音の全貌―絵画、演劇、映画を越境する個性」 展覧会の概要説明会 & プレス内覧会の会場内風景です。 |
序章. 描く人 / PROLOGUE. Kainosho the Painter |
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京都の洛中に生まれ、御所周辺の優美な文化に囲まれて育った甲斐荘楠音は、京都市立美術工芸学校と京都市立絵画専門学校で図案と日本画を学び、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど西洋美術の人物表現にも心惹かれ、歌舞伎への愛着をそれらと融合させたような日本画を制作した。 |
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・No.004 甲斐荘楠音(1894-1978) 《 毛抜 》 大正 4 年頃(c.1915) 絹本着色/額 104.0 x 70.0 京都国立近代美術館 /
・No.007 甲斐荘楠音(1894-1978) 《 秋心 》 大正 6 年(1917) 絹本着色/額 151.0 x 44.0 京都国立近代美術館 |
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・恩人の華岳が早くに画壇を去ったこともあって徐々に作品発表の場を失い、1940(昭和 15 )年前後には映画界へ活躍の場を移したため、画壇では半ば忘れられたが、晩期には京都の近代美術が再評価され始めた中で再び脚光を浴びた。 |
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・3 階、このフロアーは甲斐荘の絵画に関する業績を集めています。 展覧会の序章のテーマ・趣旨は、甲斐荘の代表的な業績をハイライトして、甲斐荘が京都絵画専門学校に在籍している当時から、絵画初期の作品から出世作になった 《横櫛》{作品No.005/006) また大正後期から昭和初期にかけての作品を集めております。 「あやしい絵」 フューチャーされた甲斐荘のひとつの側面が見えてくると思います。 甲斐荘は生涯・女性美・女性を深く追求した画家でありました。 通俗的の美人画を描いたわけではなく、西洋絵画の影響を受けて陰影が深かったり、非常にリアリティックな独自の女性像を築き上げた。 当時から評価を受けていた画家でありました。 甲斐荘の絵画の仕事の裏側にあるこだわりや努力に焦点を当てています。 若山 満大(東京ステーションギャラリー・学芸員) |
―2023 6_30 プレス内覧会の説明会、プレスリリース 2023. 4 月 5 日、 「甲斐荘楠音の全貌」 図録よりの抜粋文章です― |
甲斐荘楠音の全貌―絵画、演劇、映画を越境する個性 / KAINOSHO Tadaoto: Crossing Boundaries in Nihonga Theater and Film |
目 次 / Contents |
―2023 6_30 プレス内覧会の説明会、プレスリリース 2023. 4 月 5 日、 「甲斐荘楠音の全貌―絵画、演劇、映画を越境する個性」 図録よりの抜粋文章です― |
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第 1 章. こだわる人 / CHAPTER 1. Kainosho the Stickler |
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1918 (大正 7 ) 年、まだ無名だった甲斐荘楠音が国画創作協会の第 1 回展に出品した 《横櫛》 作品No.006 は、多くの画家や画学生、絵画愛好の観衆を魅了した。
魅力が今も色褪せないのは、顔の表情の繊細な表現に映る情念の深さゆえか、存在感ある肉体表現に表れる官能の豊かさによるのか。 |
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・左 No.028 甲斐荘楠音 1894-1978 《 春 》 昭和 4 年(1929) 絹本金地着色/二曲一隻屛風 95.9 x 151.4 メトロポリタン美術館 |
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・No.028 《春》 本作は、国画創作協会解散後に関係者らが結成した美術団体 「新樹社」 の第1回展に出品された作品である。 明るく淡い色彩や文様による装飾性は画業の新局面を切り開こうとした楠音の意欲作と言える。 本作は発表後から 90 年にわたり京都の個人に所蔵されていたもので 2019 年にメトロポリタン美術館に収蔵された。 日本の美術館においては今回が初公開となる。 |
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・第 1 章では、甲斐荘のスケッチやスクラップブックを紹介しています。 甲斐荘は序章に並んでいるような、大きな本画を描くにあたって、沢山のスケッチや、それにまつわるものを沢山残しています。 同じような構図、同じようなモデル、必要に何度も何度も描いて、少しずつ修正を重ねていって、その上で大型の絵画作品を成立させています。 今回の調査で本画に関連するスケッチをひとつひとつ関連をつなげてゆくと甲斐荘の画業を改めて実証でき、今回の見どころとなっています。 見どころのもうひとつは、ニューヨークのメトロポリタン美術館からこの展覧会のために来日しました。 《春》(作品No.28) という作品です。 この作品は、甲斐荘の昭和初期の傑作で、彼が新樹社(国画創作協会の解散後、彼らが起こした美術団体)の第 1 回展に出品された意欲作です。 それまでのダークな雰囲気の漂う絵画から一転して鮮やかな色彩、写実とは異なる少しデコラティブな装飾、甲斐荘・自身の心情を語った 「暗さから少しずつ明るくしようと努力した」 その成果がこの作品からうかがえる。 また、彼の所蔵していたスケッチ、絵葉書から横たわるポーズの役者の絵葉書が沢山出てきた。 甲斐荘のスクラップブックは 60 冊ぐらい現存している。 そこから彼の手製のデーターベースが垣間見られる。 老若男女・身体・ポーズや動きがスクラップブックから見て取れる、 これらに注目し、改めて甲斐荘の作品を鑑賞する事をお勧めします。 若山 満大(東京ステーションギャラリー・学芸員) |
画像をクリックすると 「第2章. 演じる人 / CHAPTER 2. Kainosho the Performer」 の章が大きな画像でご覧いただけます。 |
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第2章. 演じる人 / CHAPTER 2. Kainosho the Performer |
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甲斐荘楠音の日本画には、歌舞伎や文楽など芝居に取材した作例が多い。 芝居を愛したからだろう。 幼少から歌舞伎を好み、大人に混じって劇場に通った彼は、大正初期、京都市立絵画専門学校の画学生だった頃には観劇の記録を多数のスケッチブックに残した。
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・右 No.037 甲斐荘楠音1894-1978 《 文楽之図 》 昭和 2 年頃(c.1927) 絹本着色/額 144.0 x 70.5 京都国立近代美術館 |
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・No.032 《桂川の場へ》本作品は、信濃屋の娘お半と帯屋長右エ門の道行物を題材としている。 火鉢の前に座るお半のモデルになっているのは楠音自身で、同様のポーズを撮った写真が残っている。 楠音が女形にあこがれを抱いたきっかけは、少年時代、京屋こと四代目中村芝雀(のちの三代目中村雀右衛門) が演じたお半を見たことがあった。 「あんな年輩の男がどうしてあんなに美しくなるのか、その不思議を見たかった」 と、京屋がお半を演じる芝居小屋に三度も足を運んだと楠音は回想している。 |
画像をクリックすると 「第3章. 越境する人 / CHAPTER 3. Kainosho the Boundary Crosser」 の章が「山口 記弘 COE」の説明会が大きな画像でご覧いただけます。 |
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第3章. 越境する人 / CHAPTER 3. Kainosho the Boundary Crosser |
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画家としての業績に比して、甲斐荘楠音が映画界で活躍したことはあまり知られていない。 本章では、東映京都撮影所に遺された。 「旗本退屈男」 シリーズの映画衣裳をはじめとした多彩な資料で甲斐荘の映画界での業績を跡づける。 |
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⑮ 「雨月物語」 昭和 28 年/溝口健二/大映株式会社/森雅之/風俗考証/白黒 / ・左 No.F-027 ポスター B2 国立映画アーカイブ / ・中 No.F-026 「衣裳」 木綿/金彩 着丈 h 115.0 シネマテーク・フランセーズ、パリ / ・右 No.M-026 「アカデミー賞ノミネート状」 昭和 30 年(1955) |
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・No.F-026 「米国アカデミー賞にノミネート、世界が認めた楠音の衣裳デザイン」 溝口健二監督 『雨月物語』 (1953 年公開) は、第 14 回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞した日本映画史を代表する作品のひとつ。 楠音はこの映画に 「風俗考証」 として参加し、手がけた衣裳が第 23 回アカデミー賞衣裳デザイン部門にノミネートされた。 シネマテーク・フランセーズ所蔵の本衣裳は 『雨月物語』 で使用されたものだが、劇中のどのシーンで誰が着用したかは判然としない。 木綿地に箔押しで桐紋が散らしてある。 |
'2023 6_30 「甲斐荘楠音の全貌―絵画、演劇、映画を越境する個性」 展覧会の概要説明会 & プレス内覧会の会場内風景です。 |
画像をクリックすると 「終章. 数奇な人 / EPILOGUE. Kainosho the Wanderer」 が大きな画像でご覧いただけます。 |
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甲斐荘楠音 KAINOSHO Tadaoto (1894-1978) |
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年 譜 (図録「甲斐荘楠音の全貌編」)から抜粋しています。 |
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・1894 年 0 歳 甲斐荘家は楠木正成の一族(橘氏)の末裔と伝えられる、徳川時代には 4000 石の旗本で、江戸に住んでいたが、知行所は河内長野にあった。 1873(明治
6 ) 年に御陵衛士に任じられるなど、京都において、旧幕臣の 「朝臣」 として朝廷に繋がりを持つ地位にあったことは注目に値しょう。 母の勝(1861年生)
は御所侍を努めた田中則久の三女で父、甲斐荘正秀の三男として京都に生まれる。 |
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・画像のクリックの終章は、甲斐荘が終生にわたって手を加えて続けた二つの大きな屏風を中心に展示をしています。 《畜生塚》(作品No.041) 大正 4 年から描き始め、一生かけても完成しなかった未完成作であります。 にもかかわらず大変魅力的な見どころの多い作品です。 彼はルネッサンス美術に深い造詣を持っていて、ミケランジェロのピエタの構図、顔立ち、手の形などはレオナルド・ダヴィンチの素描から得ている。 若い頃の甲斐荘の関心が現れている。 《虹のかけ橋(七妍)》(作品No.042) は絢爛豪華な七人の花魁を描いたものです。 甲斐荘が若い頃、大正 4 年からはじめまして、晩年まで断続的に手を加え続けた作品です。 1968 年に三越で個展を開催し、その時に大型作品を出品しました。 若い頃描いた顔をすべて洗い落として描き直した。 制作当初の顔立ちではない、晩年甲斐荘が描いた顔立ちになっている。 甲斐荘は絵画だけでなく、演劇、映画業界での優れた芸術的成果を沢山残した画家で芸術家でありました。 若山 満大(東京ステーションギャラリー・学芸員) |
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